PRIDE
ACT19
次の日の朝、窓から差し込む光の眩しさに寝返りを打ち、低く唸りながらまぶたを持ち上げたロイは、ついでがばっと起きあがって、しばし呆然となった。覚醒した眼に朝陽がしみる。どうりで眩しいはずだ。窓の向こうの太陽はすでに高いところに昇っていて、これはいわゆる寝坊というやつではないかと自己嫌悪に陥りながら、ロイは頭を掻いて寝台から降りた。
急いで着替え、こんな日に限ってびよんと跳ねている髪を撫でつけて、一階へ降りていけば、暖炉の火で暖まったリビングではアルフォンスとウィンリィが腰を下ろしてコーヒーを飲んでいた。
「おはよう、マスタング少佐」
アルフォンスがいつもの挨拶を、少し笑いを含んだ声で掛けてくる。ロイの姿を見たウィンリィがすぐに立ち上がって、キッチンへ駆けていった。苦笑しながらおはようございますと返し、寝坊なんて珍しいよねと笑って椅子を引いてくれたアルフォンスに軽く頭を下げて、ロイは席に着く。
ロイの分の朝食を持って戻ってきたウィンリィに礼を言って受け取りながら、ロイはふと何かが足りないような妙な違和感を覚えた。周りをぐるりと見渡して、ああ、と気づく。
室内がどこか単調な気がしたのは、朝陽よりも眩しい黄金(きん)の光がないからだった。いつもの賑やかさがないのは、人一倍口を動かしている青年が見えないせいだ。
「准将もまだですか?」
たずねたロイに、腰掛けようと椅子に手を伸ばしたウィンリィの動きが、一瞬止まった。
「ううん。エドは、ええと……」
「母さんのね、墓参りに」
珍しく言葉を濁したウィンリィを遮って、アルフォンスがそう答えた。驚いたように夫を振り返ったウィンリィに、アルフォンスは穏やかな微笑みを向ける。その瞳に何を感じ取ったのか、ウィンリィは続けようとした言葉を呑み込んだ。そして一拍を置いて、彼女は黙って椅子を引いて腰を下ろした。
二人の様子を疑問に思いながらも、ロイは深く問うことはしなかった。ウィンリィの両親のこともエドワードとアルフォンスの両親のことも一度として話題になったことはなかったから、なんとなくもう存命ではないのだろうとは思っていたのだ。まずいことを聞いたのかもしれないな、と胸の内で反省した。
「あの、」
ためらいがちに声を掛けると、アルフォンスがこちらへ顔を向けた。髪と揃いの金の瞳の真ん中に、自分が映る。アルフォンスは口は開かず、目だけで先を促した。
「もし、よろしければ私も御参りしてきてもいいですか」
ロイの申し出に、アルフォンスは軽く目を見張った。しかし、それをロイが疑問に思うよりも早く、すぐに彼は表情を緩める。けれどその笑みの裏の感情を正確に理解するまでには、ロイはこの青年のことを知らなかった。穏やかで優しい彼だが、付き合ってみれば、意外とつかみ所がない。エドワードの瞳は透明で、何でも見透かされてしまいそうな気分になるが、アルフォンスの少しくすんだ金の瞳は、どんな感情もその柔らかな色で包み込んで隠しているような気がした。
「そうだね、母さんも喜ぶと思うよ。ついでに兄さんも連れて帰って来てくれるかな」
そう言ってロイから目を外したアルフォンスの、窓の外を見やった瞳に浮かべられた複雑な光の色には、ロイは気づかなかった。
リゼンブールの景色は相も変わらずのどかだった。今日は昨日よりも少し気温が高く、この街よりももっとずっと寒い場所で育ったロイには、時折頬を撫でる風の冷たさは気持ちいいくらいだ。雲一つ無い青い空からは真っ直ぐに陽の光が降りて、路の脇に立ち並ぶ木々の、春芽吹く命の力を蓄えている硬質な枝をすっきりと浮かび上がらせる。
アルフォンスに教えてもらった路を行きながら、ロイの頭の中を占めるのはやはり昨日の出来事だった。思えばめったにしない寝坊をしたのも、このことばかりを考えてなかなか寝付けなかったせいかもしれない。朝食の席でよほどアルフォンスに尋ねようかと思ったが、自分でも確証のないことを口に出すのはためらわれてできなかった。
錬成陣無しの錬成技術。
写真から一定期間姿を消すアルフォンスと、謎の鎧。
そして、少年期の、エドワードの姿。
事実として頭に入ってくる情報は、謎を深めるばかりで答えに繋がらない。それらをイコールで結ぶ決定的な鍵を、ロイは掴めないでいた。否、薄々感づいていながらも、目を逸らしているのかもしれない。――ふと頭に浮かんだその仮定は、肯定するにはあまりにも恐ろしかった。
考え事をしながら歩いている間に、いつのまにか目的の場所まで辿り着いたらしい。緩やかな丘を上ったその先に、遠目にも眩しく陽の光を反射する金色が見えて、ロイは少し足を速めた。声が届くくらいに近づくと、ロイは准将、と声を掛けようとして、しかしその瞳に映った青年の姿に目を奪われるように足を止めた。
手向けの花束を片手に提げ、睨むように、また祈るようにずっと墓石を見つめるエドワードの横顔は、逆光に遮られてその表情までは見えない。ただ、微動だにせず佇むその姿がともすれば消えてしまいそうに儚くて、ロイは慌てて瞬きした。淡い金の光は、風に攫われて熔けてしまいそうで、現(うつつ)のものとは思えなかったのだ。
引き寄せられるように、一歩を近づこうとした、その時。
「アルが教えたのか」
低く問うた声に、ぎくりとして動きを止めた。思わず顔を上げたが、交わるかと思った視線は、しかし未だ動かないエドワードに拒まれる。強く煌めく金の瞳が半ば伏せられているせいで、いつもの彼ではないみたいだと、ロイは心の内に呟いた。身に纏った血のような赤のコートばかりが鮮やかで、その姿はまるで、天の声を聞く聖人のようでもあり、また罪に濡れた罪人のようでもあった。
「何か、オレに聞きたいことがあってきたんだろ」
「……」
「何が知りたい、マスタング少佐?」
ようやく顔を上げ、振り返ったエドワードの瞳にはめ込まれた、鋼の意志を封じた琥珀に気圧されそうになって、ロイは一瞬言葉を見失った。しかし、ぐっと握った右手に力を入れて、その視線を受け止める。
「昨日、リビングの写真を見て……それで」
あれほど考えていたのに、上手く言葉が纏まらない。肯定されることを、望んでいるのか。それとも、否定されることを望んでいるのか。どちらを自分が欲しているのか見失いそうになる。
「写真に写っている、あの鎧の人物は――」
「アルフォンスだよ」
言葉尻を遮るように返ってきた答えに、ロイは目を見開いた。あまりに簡素なその言葉に、一瞬、自分の聞き間違いかと思って耳を疑いさえした。エドワードを窺えば、その瞳は何の感情も乗せず、冷たい鋼の色をしている。
「質問はそれだけか、マスタング少佐?」
淡々と、抑揚無く紡がれる言葉。こんな氷のような眼を、声をエドワードが持っているとは、知らなかった。太陽にように煌めく暖かな金色は、一転して鋭い刃物のように鋭利な輝きを放つのだと、ひやりと背中を撫でるものを感じながら、ロイは震えそうになる指を握り込んだ。
「……あの、鎧の姿は」
パズルの、最後の一ピース。
「あなたの左足が、昔は機械鎧だったことに関係しているのですか」
■
「……そうだと、言ったら?」
息も詰まるような、重い沈黙を破ったのは、エドワードの方だった。赤い唇の端を持ち上げ、一回り以上も年の離れた少年の、濡れた黒曜石のような漆黒の瞳を見つめる。その銘に相応しく、底の見えない闇色の中に焔を飼っている眼だ。
初めて見た時、戦慄が走ったその眼。鮮やかに、空を焼く深紅の業火の向こう、その瞳の奥底で燃える焔に、目を奪われた。決して揺るがない真っ直ぐなその瞳は、夜に横たわる海原のように深く、そして静かに射抜く。
「何を、したんですか」
――『何を作った!』
だめだ、と思った時には遅かった。ロイの声に重なったその声が、頭を割るように響いたその途端、視界がぐにゃりと歪んだ。エドワードが頭(かぶり)を振って拒絶するより早く、蓋をしていた記憶が溢れ出し、過去は津波のように襲ってくる。
蘇るのは、濃い血の臭いで噎せ返った、暗くて冷たい部屋。
今もなお夢に見る血塗られた錬成陣。
その中心で、風の抜けるような音で口から息を吐きだした『モノ』。
ことり、と。
縋るように、自分に伸びてきた腕。
白い、
血の海に、沈んだ。
――『等価交換、だろ?』
罪にまみれた暗闇の底でにやりと笑った真理の声が、頭に木霊した。