PRIDE
ACT16
ウィンリィが洗濯日和だと言った空には天辺に太陽が昇って、綺麗な青が広がった。冬の肌に刺さるような鋭い空気に柔らかな陽光が絡まって、ピンと張った白い洗濯物たちが爽やかな風に揺れる。エドワードとアルフォンスは組み手を終え、よれよれになった衣服の泥を払うのもそこそこに、ばっちゃん腹減った! と叫んで帰って来るなり、ピナコの作ったシチューの昼食をそれぞれ軽く三人前は食べた。――どうやらエドワードはシチューが好物らしい、とはここに来てロイが新たに知ったことのひとつである。
その後アルフォンスはシャワーを浴びて診療所へと戻り、エドワードはロイを連れて庭先へ出た。ひやりと頬を撫でる風が、心地よい。ウッドデッキの下で眠っていたデンが、人の気配に目を覚まして出てくる。この犬はエドワードに特別懐いているようで、エドワードの気配を察知するとぴんと耳を立てて振り返り、駆けてくるのだった。もしかしたら、機械鎧仲間だという意識が犬にもあるのだろうかと、足下に寄ってきたデンの頭を撫でている(というか掻き回している)上官を眺めながら、ロイはそんなことを考える。
しばらく嬉しそうに尻尾を振りながらエドワードの手を受け入れていたデンが、はたと動きを止めて耳を立てた。聡明な真っ黒の瞳がエドワードを越えて後ろを見つめるのにつられてロイとエドワードが振り返れば、そこには果たして、小さな少女がこちらの様子を窺うように手持ちぶさたで立っていた。
耳より高い位置で二つに髪を結び、あったかそうなダッフルコートに毛糸の帽子と手袋をした六、七歳と見える少女は、大きな瞳でおずおずと上を見上げると、可愛らしく小首を傾げて、
「アルせんせい、いる?」
と尋ねた。
瞬間、「こんな小さな子どもまで口説いているのか!?」と奇しくも同じ台詞がロイとエドワードの頭を走ったのだが、そんなことには幼い少女は気づかないで、
「あのね、納屋が古くなってるから、アルせんせいに直してほしいの」
ああ錬金術の頼み事か、とエドワードとロイはとりあえずほっと胸を撫で下ろし、エドワードは少女と目線を合わせるために膝を折った。少女の顔を覗き込んで、彼は目を見開く。
「エミリーじゃないか」
名前を呼ばれた少女はきょとん、となって目をぱちくりしたが、しかし自分を見つめるその蜂蜜の色をした透明な瞳にはっとなった。
「……エド?」
「あ、わかったか? そうだよ。父さん元気か」
「うん。げんき」
にっこりと笑ったエミリーの頭を、くしゃりとエドワードが撫でる。どうやら彼は、小さいものの頭を撫でてやるのが好きらしい。エミリーはくすぐったそうに身をすくめた。
「お知り合いですか?」
笑い合う二人をまるで兄妹のようだな、と見つめながら、ロイが尋ねた。
「うん、近所の家の子ども。こいつの父親は、ガキの頃よくつるんでた奴でさ。ちょっと見ない間に大きくなって」
そんな台詞を未だに少年のような外見のエドワードが口にするのには妙なおかしさがあったが、ロイはそうですかと微笑んだ。エドワードはエミリーに向き直る。
「錬金術師が必要なんだろ? だったらオレが行ってやるよ」
まかせとけ、と胸を叩いたエドワードを、しかしエミリーは首を傾げて大きな茶色の瞳で見上げた。それから何か言い出そうと口を開いたが、言葉は喉の奥に呑み込まれて消えていく。エミリーはしばらくうつむいてもじもじしていたが、やがておずおずと顔を上げた。
「あのね……アルせんせいが、いいの」
エドワードが目を丸くすると、少女は困ったように瞳を揺らした。少しの間気まずい沈黙が降りたが、ついにはエミリーがエドワードの強くてまっすぐな金の瞳に負けてしまって、おそるおそる、といった様子で申し訳なさそうに口を開いた。
「……エドはセンスがないからだめだよって、お父さんが」
ロイが吹き出した。あの野郎、と引きつった笑みを浮かべ、エドワードは隣で身体を二つ折りにして大笑いする部下の腹に一発ぶち込んで黙らせると、天使もかくや、という満面の笑顔でエミリーに振り返った。
「大丈夫、オレがちゃあんと直してやるから、案内してくれる?」
陽光を受けてきらきらと光を跳ねる、蜂蜜を溶かしたような金色の髪に縁取られた美しい顔にきょとんと見惚れて、エミリーは無意識のうちにこくんとうなずいていた。
エミリーの家は、ロックベル家からエルリック家とは反対の方向に五分弱歩いたところにある。エミリーはたたたっと走っては後ろを振り返り、エドワードとロイの姿を確認しながら路を行った。その無邪気な姿に、頬が緩む。小さな歩幅で踊るように駆ける少女の後を付いていく軍人二人というのも不思議な光景だな、とロイは苦笑しながら、ふわりと吹き上げた風に誘われるように周りを見渡した。柵に囲われた羊たちがのんびりと草を食む光景は、時間の流れを緩やかに見せる。
「着いたよ!」
白い息を弾ませて振り返ったエミリーが指さす先の納屋の前、そこに立っていた男性がこちらに気づいた様子で手を振った。がっちりとした体つきの長身の男性は、歳の格好からして、おそらくエミリーの父親だろう。顔が分かるくらいの距離まで近づくと、彼は目を丸くした。
「あれ、エドじゃないか」
「よう、ジェームス! 久しぶり」
くだけた口調でそう挨拶して、エドワードは笑顔を見せた。ジェームスと呼ばれた男性は、ただいまっ!と元気よく飛びついてきた娘を受け止めながら、それに答える。
「帰ってきてたんだってな。しかしまあ、お前はいつまでたっても貫禄がつかねえなあ」
「童顔って言いてえのか殴るぞコラ」
くすくすとロイが隣で笑いを漏らせば、耳ざとく聞きつけた上官に殴られる。
「お前も笑ってんな」
すいませんと謝る声にも笑いが含まれていて、エドワードは、「どいつもこいつもまったく」と愚痴をこぼす。そんな二人のやりとりを眺めていたジェームスが、楽しそうに笑い声を立てた。
「そっちの少年は、エドの子分か?」
「『部下』だよ、悪ガキ軍団じゃないんだから」
「どっちもたいして変わんねえだろ。こいつのお守りなんて、力居るだろ? まったく尊敬するね、俺は」
後半の台詞はロイに向けられたものだ。にっと歯を見せたジェームスに、ロイも思わず笑い返してしまった。エドワードはジェームスに頭を掻き回されて、背が縮む! と盛大に文句を言っている。どうやらエドワードの方が弟分のような関係らしかった。こんなふうに楽しそうに男友達とじゃれ合う上官というのも初めて見る。
「それで。納屋を直して欲しいんだって?」
乱れた髪を撫でつけながら、エドワードが尋ねた。ああそうだった、とジェームスが後ろを振り返る。納屋の壁に手を掛けて、
「だいぶ古くなってるからな。強度を上げて欲しいんだ」
「少し天上が低くなるけど、大丈夫か?」
「ああ、『等価交換』だっけ。好きにしてくれていいよ、足りないなら材木も一応用意してある」
お前のセンスは信用無いからなあ、外観はいじるなよとジェームスが余計な一言をくっつけたせいで、エドワードにぽかりと頭を殴られている。打ち合わせを始めた二人から視線を外して、ロイは納屋を見上げた。建ててから数年くらいか、と見えるそれは、ジェームスの言葉通り、大分傷んでいる。老朽化した木造建築物を、自分ならどんな術で直すだろうかと、ロイは頭の中で錬成陣を描いた。
頭の中を、術式が駆けめぐる。その瞬間から、自分の意識はどこか遠い彼方へと旅立つ。――いや、離れるというよりは、より奥深く潜る、と表現した方が正しいのかも知れない。自分自身の中に、意識が沈み込んでいくような感覚。そこはまるで別世界の、言うなれば暗闇に似た場所だ。数式、元素記号、構築式と錬成陣。ただただそんなものに埋め尽くされて、けれど美しい場所。
強度を上げるには、木繊維同士の結合力を強めて、木材の内部密度を上げればよいか。では、なるべく元の大きさのままにするには、どう分解し、組み換え、再利用する? 頭の中で術式を組み立てては、消して修正していく。エドワードはどんな陣を描くだろうかと、好奇心に胸が高まった。『鋼の錬金術師』のレポートを読んで以来、まともに本人の錬成を見るのは初めてなのだ。
そんなことを考えていると、ふと自分の横を通り過ぎていった茶色の頭に目を取られた。大人たちのお喋りに飽きたエミリーが、父親の手から離れてとてとてと駆け出したところだった。白い息を吐きながら、無邪気に納屋の周りを走り回る。
子どもってほんとにじっとしていられない生き物だなあ、と目を細めてロイが心の内に呟いた、その時だった。
あっ、とそう思った時には遅かった。
ぐらり、と納屋の壁に立てかけてあった木材がバランスを崩す。まるで、スローモーションのように陰を落として倒れていくそれを、見上げる大きな茶色の瞳。目を見開いて、固まった少女。
「……っ! 危ない!!」
鋭い叫び声にびくりと肩を揺らしたエミリーが振り返っても、咄嗟に伸ばした右手は悲しいかな、距離が足りるはずもなく、虚しく空を切った。