PRIDE
ACT10
ぐ、と。
白い手袋の下で拳を握りしめる。
――鋼の、右手。
血の通わない冷たいこの腕は、自分が傷つくのと引替に、人を傷つける感触が残らない。
■
「ぶああああああ!!」
ドドドドドッと、すさまじい音を立てながら大口を開けた竜のごとく襲ってきた激しい水流に、犯人グループの男たちは一瞬で呑み込まれた。一呑みに喰らおうと牙を剥き荒れ狂う激流に対して、人間の抵抗などちっぽけなものだ。悲鳴さえも水に呑まれ、視界がひっくり返るほど身を躍らせた男たちは、状況を理解する間もなく一気に次車両へと続くドアまで運ばれた。
――ぶつかる!
本能的に固く目をつむった彼らは、しかし次に襲ってくるはずの衝撃と痛みを得なかった。激しい水流に押され突っ込んでしまうと思われたドアは何者かによってガラ、といたって平然と引かれ、間抜けにも、男たちは次の車両に、団子状態でまとめてどざーと流れ込んだのだ。
ようやく激流から脱出し、水の張った床に手を突く。彼らはぜいぜいと肩を上下させながら、ふと陰った視界に無意識に顔を上げた。
果たしてそこには。
天使のように美しく整った顔をした黒髪の少年が、まさに悪魔のようににっこりと微笑んでいた。
「いらっしゃいませ、テロリストのおじさま方」
犯人たちの血の気がさあっと退くのと、恐ろしく美しい悪魔がぽきぽき、と拳を胸の前で鳴らしながら死の宣告を告げたのは、ほとんど同時だった、不運にも。
時を同じくして、咄嗟に車内の椅子を盾にすることで激流に一人呑み込まれずに一両車に残ったバルドは、水が後続車両へと流れて引いていくと、言葉もなく呆然と車内を見つめた。突如として光と共に現れたスピーカー、二両目以下を解放したという信じられない内容を喋った少年のような声、襲ってきた激流。立て続けに起こった不測の事態に頭がついていかない。しかし、彼も数々の修羅場をくぐり抜けてきた人間だ。しばし呆然としてから、我に返ったようにバルドは窓枠に手を掛け、水を吸って重くなった衣服を引きずるようにして身体を起こした。
ぐ、と手のひらに爪を食い込ませ、奥歯を噛む。瞳に徐々に上ってきた色は、煮えたぎる炎だった。あまりに意表を突いた奇策、そしてそれによって一瞬自分を見失った己自身に湧いた苛立ちは、自負心の強いバルドにとって相当なものだった。ぎり、と折れるほどに奥歯を噛んで、彼は片膝に手を掛けて立ち上がる。
「まだだ! まだ切り札の人質が……」
その、バルドの無意識に漏らした叫びを断ち切るかのように。
――目の前に光が、降ってきた。
「なっ……!?」
一瞬太陽が落ちてきたかのような錯覚ののち、形を結んだそれが縁取った線に、バルドは目を見開く。細くしなやかな、青年の身体。華奢な、と形容しても良いようなその風貌と、光を散らす、踊る金の三つ編み。そのきらきらと舞う光を集め、不敵に煌めいた猫を思わせる蜜色の瞳。――青い、錬成反応。
青の残光を纏った右手を持ち上げたその彼は、にやりと口の端を上げた。
「おっ、機械鎧仲間?」
その表情はまるで、ゲームを楽しんでいるかのような。
「こっ……」
驚愕の後に、稲妻のように激しい感情が身を突き抜ける。
「こんな小僧にィィィィ!!!」
ジャキ、と構え、怒りにまかせて乱射しようと突きだした左腕は、だが鉛玉を吐くことなく。
ひらりと金色が舞った。
淡い金の残像を残して、それは竜巻のように、疾風迅雷のごとくバルドの懐に入った。――動きが、見えなかった。思考が吹き飛び、周りの雑音が消えて、彼がわずかに残った本能で身を引くその前に、ドン、と重い衝撃が襲った。
「なんだ」
すぐ近くに、金の瞳があった。―― 一瞬で血の気が退くほどに、何もかも見透かされているような感覚を覚えた。天使のような、悪魔のような、美しい絶対零度の獣の瞳が、すうっと細められる。
「安物使ってんなあ」
足を床に縫い止められたように身体を硬直させたバルドは、機械鎧を真っ二つに裂かれたことにも、同時に肩に置かれた手が誰のものなのかも理解できないまま。
振り返りざまに一撃を食らって、意識を手放した。
■
「人質にされたどっかのお偉いさんって、アンタかよ……」
リゼンブールの駅のホーム、青空広がるのどかな田舎の風景をバックに心底脱力したような呟きを吐いたのは、エドワード・エルリック国軍准将。彼は犯人グループの拘束から助け出した将軍の顔を見るなり、心底嫌そうな顔をした。
「お前だったのか、列車中を暴れ回っていたのは」
憲兵に手枷を解いてもらいながら、こちらも眉間を寄せて答えたのは、ハクロ将軍だ。
「ハクロのおっさんだって知ってたら、放っときゃよかった……」
幸いにもエドワードが小声で呟いたその台詞を聞き取ったのは、隣に控えていたロイだけだった。どこまで本気で言っているのか分からないが、国軍将軍同士で第二戦が繰り広げられるという心底突き合いたくない事態に陥るのだけは避けてもらいたいと、ロイはエドワードの隣で内心冷や汗を流した。
「言っとくけど、今回は貸しだからな、ハクロ将軍! ――逃げるぞ、少佐」
捨て台詞を吐いて、エドワードはさっさと身を返した。ハクロ将軍が怒ったように言い返す声に、よほどその場に留まろうかと思ったが、袖を引かれてはロイも従うしかない。
ちょっと待ってくださいよ、と腕を突っ張られた状態で口を開こうとした矢先、後ろで悲鳴が上がった。
「貴様……っ!」
鋭い叫び声にロイとエドワードが揃って振り返れば、そこには肩を押さえて血を流す憲兵と、縄を断ち切って起きあがったバルドの姿とがあった。血管の浮き上がるほどに怒りを上らせ、荒い息を食いしばった歯の間から吐いているその形相にさすがのロイもぎょっとする。その左手の機械鎧の先には、血の絡んだ刃。
「うわー、仕込みナイフかよ」
げんなりと呟いたエドワードの隣で、ロイはスラックスのポケットの中の手を握りしめた。そして一度喉を鳴らして覚悟を呑み込むと、ゆっくりとそれを引き抜く。
「准将、お下がり下さい」
右手の発火布をはめ直し、奥歯を噛んで顔を上げたその横顔を、エドワードがどんな表情で見つめていたか、ロイは知らない。敵を見据えた視界に鋼の輝きがすっと割って入って、驚いて首を返した。
「――動くなよ」
上官は、そう低く呟いて。
「おおおおお!!」
ナイフを定めて凄まじい勢いで地を蹴ったバルドに対して、エドワードは薄く笑みを敷いた。おそらく無意識に、だ。興奮し逆上して向かってくる敵の姿を映した金の瞳からは、一切の感情が消えている。それと矛盾して口許に浮かべられる薄い笑みは、思わずロイが息を呑んだほど、ひやりとする恐ろしさを含んでいた。
ぱん、と両手を胸の前で打ち鳴らし、エドワードが床に手を突くと同時だった。
放電するように青い錬成光がほとばしり、地面から先端の鋭く尖った円錐が、槍のように飛び出す。
「がああああ!!」
怒りにまかせて突進してきたバルドはその勢いをいきなり止められるはずもなく、隆起した針山に自ら飛び込んでしまう。エドワードはさらに両手を合わせた。今度はゴゴゴゴ、と地響きと共に地面が隆起し、縫い止められたバルドの左右から巨大な拳のようなものが現れて彼を握りつぶすように掴むと、身動きの取れないように閉じこめる。その間に騒音に駆けつけてきた憲兵たちが銃を構えてバルドを取り囲んだ。
カツ、と靴を鳴らして、エドワードは巨大な掌に握り込まれ藻掻いている男にことさらゆっくりと歩み寄った。
「手加減して殺傷能力は低くしておいた。まだ逆らうというならこのまま握りつぶすが?」
静かな口調だが、それは、圧倒的な強さと冷酷さを持った声だった。バルドに銃を突きつけていた憲兵が、思わずごくりと息を呑む。どうやっても拘束から抜け出せないことを悟ったバルドは、自分を見下ろした金髪の若い青年をぎり、と睨め付けて、声を絞り出すように呟いた。
「……ど畜生め」
ふ、とエドワードは笑みを零す。
「まだ悪態つく根性は褒めてやるよ」
言って、傍らの憲兵に視線をやった。憲兵は頷いて、バルドの頭に銃を突きつける。その状態でエドワードはバルドの戒めを解き、両手を打ち鳴らしてバルドの左腕の機械鎧を変形させた。その際に鋼を少し引っ張ってきて手錠にし、両腕を拘束する。目の前で鮮やかに行われた錬成に憲兵たちは目を丸くしていたが、連れて行け、と命じる低い声にはっと我に返り、慌ててバルドの脇を囲む。
「お前の身柄は東方司令部へ送られる。――覚悟しとけよ、お前を裁くキレイなお姉さんは、オレよりよっぽど恐ろしいからな」
違いない、と後ろでロイが小さく呟いたのを、耳ざとく聞きつけてエドワードは笑い声を上げた。
同じ時刻、東方司令部にて人質解放と犯人拘束の報を受けたホークアイが、かちゃりと自分の愛銃を握り静かに物騒な笑みを浮かべたかどうかは、また別の話。