陽炎稲妻水の月
入り込む朝陽の眩しさに、エドワードは目を覚ました。
うっすらと瞼を開けたそこに、男の姿はなかった。きつく力を込めた腕の中に抱き込んでいるのは真白のシーツで、その朝の光を弾く純白がエドワードの目を射た。まどろみの中傍らに感じていたぬくもりはその名残も残さずになくなっていて、覚醒したエドワードの胸を強く締め付けた。
エドワードの身体は綺麗に清められていて、シーツも清潔なものに取り替えられていた。シングルベッドの上で昨夜あれほど激しく交わったことを夢ではないと裏付けるのは、散々キスの雨を降らせた男が体中に付けた印と、下半身に残る鈍痛と倦怠感だけ。自分の瞳から零れる涙の一粒まで吸った唇も、冷たい鋼の手足に熱を移した炎を生み出すあの手も、行為の間中愛の言葉を囁いてくれた優しい声も、何ひとつとして目を覚ましたエドワードの腕に残っていてはくれなかった。
エドワードはシーツを抱き込むように引き寄せて、寝返りをうった。エドワードの太陽のような金の瞳に、正反対の闇色と、鮮やかな青が飛び込んでくる。ベッドの横で襟元を直していた男は傍らの金の光が動く気配に振り返った。
「ああ、起きたのか」
さらりと空気を滑る、耳に心地よく響くテノール。その声は熱に浮かれ激しく互いを求め合ったときの、あの切ないくらい胸を揺さぶられる余裕のない声を思い出させない。いつも、そうだった。男と抱き合った翌朝はまるで泡沫の、一夜限りの幸せな夢だったのではないかと、エドワードに思わせる。
「どうかしたのかい、」
言って、男がベッドに歩み寄る。少し持ち上げた頭がふわりと抱き込まれた。優しくその腕を解かれてから顔を覗き込まれる。深い夜空を思わせる、吸い込まれそうな漆黒の瞳に見つめられてエドワードの瞳が揺れる。男はくすり、と笑みをこぼした。
「――そんな、置いて行かれた子犬のような顔をして」
そんな顔してねえ、とエドワードは小さく反抗して、それでも腕を伸ばした。めずらしく甘えるしぐさを見せるエドワードに、男は目を瞠る。けれど受け止めてくれた腕は力強くて、そのままエドワードの上半身を抱き上げるように起こして男はベッドに腰を下ろした。
「怖い夢でも?」
「ううん、ちがう……」
さらさらと流れる金の髪を手で梳きながら、男は優しく言った。それにエドワードは半ば夢うつつに答える。実際彼は過去の夢にうなされることがたびたびあって、そのときはひどく情緒不安定になり男の腕の中で泣き乱れたこともあったから、それを心配しているのだろう。けれど、エドワードの中で過去の過ちは一生背負っていくべき自分の罪だ。逃げることも、目を逸らすことも許されないと受け止めていることだった。
エドワードが怖いのは、どうしようもなく胸を締め付けて不安にさせるのは、過去の悪夢ではなかった。
「大佐……」
男の胸に頭を寄せて、エドワードはかすれた声で階級を呼んだ。昨夜男に散々喘がされ啼かされたせいでろくに言葉を紡げない声に、苦笑する。その声で呼ぶのはいつも階級名だった。エドワードが男のファーストネームを口にするのは泡沫の夜だけだ。
なんだい、と優しい響きの返事が頭の上でする。
「もう、行くの」
ああ、と男は頷いて、すぐに付け足した。
「書類を山ほど溜めているからね。――昨日、何もかも投げ出してきてしまったものだから」
出勤したらホークアイ中尉に二、三発は撃ち込まれるかもしれないな。困ったようにそう言う男がおかしくて、エドワードは喉の奥でくつくつと笑った。――二、三発程度で済めばいいけれど。優秀な彼の副官からは、銃の連射に加えて強烈な皮肉が飛んで来るに違いない。それから逃げまどう男の姿が容易に想像できて、なおさらおかしかった。
震える肩に合わせてくせのないハニーゴールドが揺れるのを、男がどれほど愛おしげに、優しいまなざしで見つめているかエドワードは知らない。遊ぶように跳ねる金髪を目を細めて見つめながら、男は声を落とす。
「朝食はキッチンのテーブルの上に置いてあるから、起きられるようになったら食べておきなさい。冷めていたら、温めて」
ありがとう、とエドワードは小さく礼を言った。この男はベッドに連れ込むまでや最中はひどく強引で余裕がないくせに、翌朝はいつもの倍くらい優しい。別れの朝の優しさがどんなに胸を苦しませるか、気付いていないのだろうか。
「キーは渡しておくよ。好きなだけここで休めばいい。今日、イーストシティを発つのだろう? その前に司令部に寄って返してくれればいいから」
旅立つ前に、顔を見せてくれるね?――遠く離れてしまう前に少しでも会いたいと、強く気持ちを込めたその台詞に、エドワードは泣きそうになる。きっと別れのときには「いってらっしゃい」と引き止めたい感情を押し殺して手を振るだろう男の笑顔が浮かぶ。
「では、私はそろそろ時間だから」
そう言って男は立ち上がった。男の動きに合わせてエドワードも顔を上げる。けれど目線は男の顔まで届かなくて、眼前に広がったのは鮮やかな青だった。いつもエドワードから男を奪っていく色だ。
行かないでと腕に縋ればこの人は自分のそばにいてくれるだろうかと、そんな馬鹿な考えがよぎってエドワードは苦笑する。いったい、いつから自分はこんなに弱くなったのだろう。
何よりも、怖いのは。自分を抱きしめてくれるあの腕が離れていくことだなんて、まるで女みたいだ。14も年下で、おまけに男で、鋼の手足に罪を背負った子どもの自分には彼を愛する資格すら、無いというのに。
「行ってくるよ――エドワード」
額に優しくキスを落とされる。もし、そのかすかなぬくもりが触れていったのが唇だったら。泣いてたかもしれない、エドワードはついばむように掠めて離れていった男の顔を見つめながら、そんなことを思った。
そして、自分も彼に別れを告げるときにはこんな表情をしているのだろうかと、泣いているような、慈しんでいるような、愛しいという狂おしいほどの感情をせつない笑みに乗せた男に、口を開いた。
そのエドワードの表情も、男がその台詞を口にするときとまるで同じだったのだけれど。
「いってらっしゃい」
立場を逆にして同じ会話を彼らが交わすのは、半日の時ののち。
部屋を出て行く男の姿を見送って、エドワードはやわらかな枕へ頭を沈めた。途端、襲ってきた睡魔に逆らわずに彼は瞳を閉じる。男の香の残るシーツを抱きしめて、エドワードは意識を手放した。
ひだまりの中見た夢は、まるで彼に抱かれているように切なく優しかった。
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