一回り以上も年の離れた子どもに抱いた感情の、
その名前を悟ったのはいったいいつだったろうか。
きみにすきだと言えたなら
だだだだッ!
小さな幅の足音が急激にクレッシェンドしながら近づいてきたかと思えば、
ばんっ!
普段恭しく開閉される扉が、あわや吹っ飛んでしまうんじゃなかろうかという勢いで開け放たれた。それまでの静寂を打ち破るその騒音に、思わずロイは顔を上げる。
瞳に飛び込んできたのは、まるで太陽の光を集めたかのような眩しい金の光。鮮やかな紅いコートときらきらと零れる金の雫が対比して、強く眼を射した。無色だった視界が、ぱっと明るい色彩にあふれる。片手を扉に突いてぜーはーと忙しく肩を上下させている小さな子どもに、ロイは驚きに見張っていた瞳をふ、と優しくほころばせた。
普段の彼を知る者がその顔を見たならきっと、目を瞠るに違いない優しい瞳で。
「久しぶりだな、鋼の」
胸に湧き上がった感情は、たぶん歓喜と呼んでいいものだった。もう想い人に会えたからと言って浮かれるような歳でもないというのに、言いようのない胸の高鳴りを感じる。それはまるで恋に一喜一憂する初な少年少女のようで、そう呼べる年代をとうに越えたロイは苦々しく笑みを刻んだ。
早々に未処理の書類を放り出して、ロイはペンを置いて立ち上がった。書類処理なんてやってられるか、というのが彼の心情である。この時ばかりはロイもあの恐ろしい副官に銃を乱射されたって構わないという覚悟だった。何故といって、この子ども、エドワードが顔を見せるのは実に久しぶりなのだ。三ヶ月――いや、正確には三ヶ月と一週間。各地を旅する間色々なことに首を突っ込んでは必ず事件を巻き起こすトラブルメーカーの少年を、ロイがどれだけ心配していたか、何度その無事を信じてもいない神に祈ったか、会いたいと身勝手に願ったか、彼は知らないだろう。会えない月日を数えるなんて女々しいことをするのは初めてだった。
豪快に扉を開け放って登場したエドワードは、しかしどういうわけか入口で仁王立ちに立ったまま動かない。ただ睨むようにまっすぐな視線のみを送ってくる少年にロイは歩み寄って、大人の自分が前に立てばすっぽりと隠れてしまうその小さな(その単語を口に出せば間違いなく下から右手のアッパーが炸裂しただろうが)身体に触れないようにしながら、そっと後ろの扉を閉めた。
一瞬、そのまま抱きしめて腕の中に閉じこめたいという欲望が顔を見せたのを、決して悟られないように。
「今回はずいぶん間が空いたね。まったく、いつも連絡は定期的にと言っているのに」
どうせそんなお小言などきれいに聞き流しているのだろう、そう考えて苦笑する。しようがないな、とこぼしながら、ロイはエドワードにソファに腰を下ろすよう勧め、お茶でも淹れようか、と食器棚に手を伸ばした。彼の、とロイが自分の中で決めているカップを取り出す。
以前ロイが休憩を取っている時に訪れたエドワードが、止める間もなくロイの手にしていたコーヒーカップを奪って煽ったことがある。さすがに中身を噴き出しはしなかったものの、その強烈に濃いブラックコーヒーに思い切り顔をしかめて「なんだコレ、胃に穴が空きそう」と突き返された。それ以来、ロイの執務室には紅茶のセットが常備されている。
慣れた手つきで紅茶を淹れながら、自然と口許に笑みが刻まれる。エドワードの紅茶はミルクたっぷりに砂糖ひとさじ半、だ。くるくるとスプーンを回しながら、ロイは紅茶の優しい香りをかぐ。エドワードが司令部を訪れた際にロイがこうして紅茶を淹れてやるのは恒例のこととなっていたので、そのふわりと香ったふんわりと甘い匂いはロイの中でエドワードの香りになっていた。暖かくて、優しい香りだ。――まるで、陽だまりのような。
「はいコレ報告書」
紅茶のカップと引替にぶっきらぼうに突きだされたレポートの束を受け取って、ロイはエドワードの隣に腰を下ろした。ぱらりとめくれば紙いっぱいにびっしりと埋められた、書いた人間の性格を表すような、右上がりの踊るような文字。
「……鋼の、もう少し綺麗な字で書けないのかね」
「仕方ねーだろ、来るときの汽車ん中で書いたんだから」
それだけの所為でもないような気がしたが、とりあえずそれ以上の言及は止めることにしてロイは再び手許に目を落とした。豪快な文字とは裏腹に、レポートは他の人間には思いも及ばないような着眼点から、各地の様子を事細かに、確かな観察眼を持って書かれている。いったいどんな感性と筆力を用いればこんな文章が書けるのかと思う。優れた才能の一面は、言葉の言い回しひとつにも表れる。これだけ分かりやすく、要所要所をきちんと捕らえた文章は大人でもなかなか書けないだろう。
「あいかわらず、よくまとめられて分かりやすい報告書だな。――汽車の中ででっちあげたにしては」
からかうような瞳を向けたロイに、エドワードは一瞬固まった。そしてこぼれ落ちそうな大きな金の瞳をぱちくりさせて、一呼吸のち。
「失礼な! 各地で見てきたことはちゃんと頭に覚えてんの。それを一気に文章に表しただけだっつの」
「逐一レポートにまとめるのが面倒で後回しにしてるんだろう」
「うっさい。オレは記憶力がいいの!」
「どうだか」
くるくると変わる表情。強い意志を宿した金の瞳。大人顔負けの達者な物言い。エドワードは、14も年上で、その上大佐という地位を持つ自分に対して何の気構えもなく接してくる。エドワードとのまるで子供の喧嘩のような言い合いが、ロイは面白くて仕方がない。
恋をしているのだと、思う。今まで数え切れないほどの女性と恋をしてきたロイだったが、ロイにとって「恋愛」は一種ゲームのようなものだったし、そもそも女性に優しくするのは男子たるもの当然だと思っていた。美しい女性は好きだし、女性の喜ぶ顔を見るのは嬉しかった。また、一人の人を幸せにできる自分に満足していたのだ。
だが、エドワードに抱く気持ちは、少し違う。女性に対するときと同じように、彼を喜ばせたいと、その笑顔が見たいと思う。けれど心の一番奥で、とくん、と甘い疼きとともに微かに顔を覗かせる感情は、初めてのものだった。
――触れたい、と。
「アルフォンス君は?」
「アルはみんなのとこにいるよ。オレはあんたに渡す報告書があったから」
「そうか」
他愛もない会話のやりとりをしながら、ロイは浮かべた微笑みの下で自嘲する。
無謀な恋だ。わかっている、そんなこと。どこにも終着点のない一方通行の想いだ。
エドワードが自分以上に大切な人間をこれ以上持つことが、ロイは怖かった。エドワードは禁忌を犯して母を錬成し、自らの腕と引き替えにしてまで弟を取り戻した。彼にはなまじ人を守る力があるだけに、自分のことを顧みない傾向がある。そうやってエドワードが傷つくことが、ロイは怖かった。いたずらに想いを告げて、エドワードの心を乱したくなかった。その上、エドワードは弟と自分の手足と取り戻す旅の途中なのだ。誰より重いさだめを背負った、誰より優しい子どもの足枷になどなりたくない。
「じゃあ、オレそろそろアルんとこ戻るわ」
飲み終えた紅茶のカップを置いてエドワードは立ち上がった。それを追うようにロイは顔を上げる。
「鋼の」
なに、と振り返ったエドワードに、ロイはソファに座ったまま、にやりと不敵な笑みを浮かべて言い放った。
「事後処理が面倒だから、私の管轄内では死ぬなよ」
――頼むから、無事で。
「ぜったいてめーより先に死なねえよ、クソ大佐!」
返ってきたいつもと同じせりふにロイは笑い声をたてた。それだけ大きな口がたたけるようなら安心だ。エドワードは今度こそ踵を返した。彼は、振り返らない。別れの言葉を決して言わないことも、ロイは知っていた。――自分のところにまた戻ってくるからと、そう思っていたい。
「一月に一度くらいは、連絡を入れなさい。――できるだけ、顔も見せるように」
扉を閉める刹那、去っていくエドワードを追うように、その小さな背中に声を掛けた。足枷になりたくないと思いながら、けれど諦められない想いに、込み上げる、どうしようもない愛しさに、ロイは苦笑する。
エドワードは振り返らないまま扉をばたんと閉めた。鮮やかな金の煌めきは、刹那の幻のように淡い残光を残して消えた。目の前で眩しく煌めいては消えていくその光を捕まえるすべを、ロイは持たない。
それでも、それでもいつか。
いつか、彼が何もかも取り戻して、そして自分のところに戻ってきてくれたら。そうしたらその時は、言ってもいいだろうか。旅のすべてを終えた彼が自分の前でまた笑ってくれたら、告げてもいいだろうか。
もし彼がうなずいてくれたら、この腕に閉じこめて、離さない。
ロイは立ち上がり、子どもの姿を遮った扉を無言のままに見つめた。トラブルメーカーな上に好奇心旺盛な彼は、数週間もすれば、また紙面をにぎやかに騒がせるのだろう。それから自分はまた記事を読みながら、彼の無事を知り安堵するとともに、毎回のごとく派手に事件を起こす子どもに心配させられるのだ。
ふ、と笑みを零して扉から視線を外したロイは、そこに積み上げられた書類の山々を見てげんなりと肩を落とした。今日は深夜まであの山の中に埋もれていそうだ。
小さなため息をひとつ吐いて、無謀な挑戦に挑むべく、ロイは果敢に椅子を引いた。
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