ときには喧嘩を
「エドワード・エルリック?」
台帳に署名を、と言うのでサインをして渡すと、それをのぞき込んだ宿屋の親父は目を丸くして驚きを声に乗せた。その場にいた人々がその名前を聞いて振り返る。そして自分たち兄弟を見比べたのちエドワードの後ろに立ったアルフォンスを指さして異口同音に言った。
「…って言ったら、錬金術師の」
「エルリック兄弟? 兄の方が国家錬金術師なんだよね」
「あんたがあの有名な? へえ、そんな鎧を着てるから『鋼』なのか」
え、いや、ボクじゃなくて…。アルが群がる人垣をやんわりと押し戻しながら困ったように言った。ちらりとエドの方を伺った大きな鎧の弟は、案の定ふるふると拳を握りしめて震えながら怒りを溜めている兄の様子に、次に落ちるだろう雷に備えて首をすくめた。そして、一拍のち。
「オーレーが! エドワード・エルリックだ馬鹿野郎―っ!!」
大音声に叫ばれた――それもかなり低い位置からもの凄いクレッシェンドをかけつつ上ってくる――怒りのオーラを撒き散らした台詞に、人垣がびっくりして固まる。そしてまるで毛を逆立てて怒(いか)る子猫のような金の色を纏った少年を見つめ、きょとんとなった。
「……へ?」
「きみが? エドワード・エルリック?」
「こっちのちっちゃい子の方がお兄さんなの?」
最後のはまずかった。
アルがあっちゃあと頭を抱えた次には、エドは爆発していた。
「だぁれが豆つぶドちびかー!!」
その後、エドが銀時計を引っ張り出して自分の方が兄なのだと証明することで事が解決するまで、暴れ回ったのは言うまでもない。
「もう、兄さん相変わらず沸点低すぎ。もうちょっと大人になりなよ」
呆れたような声音は、大きな鎧から。
「うるせえ。オレは悪くない!」
まだご機嫌ナナメでぷい、と口を尖らせてあさっての方向へ首を返したのは、金髪の少年。
「もう、血の気が多いんだから。カルシウムが足りないんだよ、牛乳飲まないと」
「あんなもんはこの世の敵だ!」
ぎゃあぎゃあと騒いでいる(大声を出しているのはエドだけだったが)兄弟は、会話だけ聞いていればどちらが兄だかわからない。暴れて壊した物を錬金術で復元して(もちろんアルがやったのだが)、宿の主人に丁重に謝ってから鍵を受け取った。そして二階の部屋へと続く階段を昇っている途中、上から声が掛けられた。言い合いを止めて振り仰ぐと、目が合った一人の青年がとんとん、と駆け下りてきた。
「なあ、兄ちゃんたち錬金術師なんだろ。コレ割っちゃったんだけど、直してくんない?」
そう言って青年が差し出したのは、割れた花瓶の破片。おそらく部屋にあったものだろう。何かのはずみに落として割ってしまったのだと見て取れた。
「宿のもん壊ちまってやべえって焦ったんだけど、あんたらなら元通りに直せるだろ。だからちょっと宿の主人には内緒でコレ直してよ」
手を顔の前で合わせて頭を下げた青年に、エドとアルは顔を見合わせた。互いを目で確認して、頷く。そして青年に視線を戻してからエドが口を開いた。
「申し訳ないけど、それはできない」
「なんで!」
断られるなんて思ってもいなかった青年は、非難じみた声を出して頭を上げた。簡単なことだろう、とその目が語っている。青年が次に言うだろう台詞を読んで、彼が口を開くより先にエドは首を振った。
「確かにそれを直すことくらい、オレたちには朝飯前だけど、オレたちの術はあんたの尻ぬぐいのためにあるんじゃないよ。錬金術の原則は等価交換だ。なんでオレたちがタダであんたの失敗のフォローをしてやらなくちゃならない? それに、自分に落ち度があって他人の物を壊しちまったんなら、何より先に持ち主に『ごめんなさい』って謝るべきだ」
完璧な正論に青年はぐっと言葉に詰まったが、それでもなお彼は諦めなかった。アルの肩を掴んで揺すった。
「そんなこと言わずにさ。なあいいだろ、ちょっとくらい――」
「ち、ちょっと押さないでください!」
そうやって狭い階段で押し問答をしているうちにだんだんとエスカレートしていき、さすがにアルが声を荒げたその次の瞬間。
「う、わ、ちょっ…!」
どがしゃん!
「いってー……大丈夫か、アル」
金属が叩きつけられた大きな音が響いてからたっぷり3秒ほど沈黙のあったのち、鎧の下から小さく声が発せられた。打ち付けた腰をさすりながら、エドは自分の身体の上に覆い被さった鎧から這い出した。埃を払いながら自分の身体を確認する。上手く受け身を取れなかったようで、全身に軋みがきたが、どこも怪我はしていない。
「おい、アルだいじょう――」
ぶか、までエドは言えなかった。
「こんの、バカ兄!!」
きいん! 鎧から大声で怒鳴りつけられて、耳が不協和音に響いた。エドは意表を突かれて言葉を呑み込み、一緒に階段から落ちてエドの横に転がっていた青年は目の前でいきなりキレた鎧の少年に目をぱちくりさせた。アルはアルで、怒りに震えている。その怒りの向けられた先は、青年ではなく――エドだった。
「兄さんのバカ! ボクなんかの下敷きになって、怪我でもしたらどうすんのさ!」
「怪我なんかしねえよ! ちゃんと受け身も取った!」
「それでも! 大体体格差を考えてよ、兄さんがボクの下敷きになったらつぶれちゃうでしょ」
「誰が弟一人くらいも支えられないほどのちびだ!」
いきなり目の前で勃発した兄弟喧嘩に、不幸にも間に挟まれてしまった青年はどうすることもできないまま固まっている。アルはもう一度怒鳴ろうとして、しかしそれを思いとどまって呑み込むと、一度息をついてから口を開いた。
「……あのね、兄さん。ボクはどんな高さから落ちたって痛みなんて感じないんだから、大丈夫なの。それより生身の兄さんがボクの重さにつぶされて、しなくてもいい怪我をする方がだめでしょう」
怒りを抑えて口にした弟に、馬鹿はどっちだ。そんな言葉が喉から出かかって、エドはくちびるを噛みしめた。『痛みなんて感じない』と静かに言うアルを睨むように見つめる。一体どんな気持ちで平然を装ってそんな台詞を吐いたのだろう、この優しい弟は。感情を隠す鋼の鎧がなければきっと、泣きそうな顔をしているに違いないのに。
「弟守るのは兄ちゃんの役目だ。体格差があるとか、生身とか鎧とか関係ねえ。兄弟なら、てめぇの弟が落ちたら兄が受け止めてやるって決まってんだよ」
痛みがあるとか無いとかそんなの関係ねぇ。
言い切って、エドは静かにアルを見つめた。表情の読めない金属の鎧の下で、アルが何を感じているかはわからないが、これを伝えないわけにはいかなかった。
「いいか、」
真摯な響きを持って、エドはゆっくりと空気に言霊を乗せる。
「お前はオレの弟なんだから、オレに頼ればいいんだ。難しいことなんて何も考えずに寄っ掛かってこい。オレが、全部支えてやる」
痛みも、苦しみも。
全部背負ってやる。どれだけ重かったって背負ってやる。それが、自分がアルよりも一年早く生まれてきた意味だ。――弟を痛みや苦しさで泣けない身体にしてしまった自分の責務だ。
「……返事は?」
兄の真っ直ぐな視線を受け止めて、アルは素直に頷いた。
「でも、ボクは全部を兄さんに背負わす気はないよ。兄さんもちゃんと、自分の身体を尊重するって約束して」
「約束、する」
「怒鳴ってごめんなさい」
「うん、ごめん」
そして。
兄弟は顔を突き合わせて言葉無しに見つめ合うと、くしゃっと笑った。アルが立ち上がって、エドに手を貸す。その手をエドも素直に取った。
突如として勃発しそして解決した兄弟喧嘩に口を出すこともできず傍観していた青年は、それから自分のことなど100%忘れた様子で階段を昇っていった兄弟の背を見送ってから、しばらく衝撃を吸収できずに呆けていたが、思い立ったように復活して立ち上がった。
兄弟が、「あ!」と手を打ったのは数秒後。
「忘れてた。そういやさっきの男どうなった?」
「あ、ほんとだ、置いてきちゃったけど大丈夫かな。ま、自分で謝りに行くんじゃないかな? ちゃんとものは考えられる目をしてたしね」
「そうだな。じゃあ部屋行って寝るか。オレは疲れた!」
「うん、ゆっくり休んでね兄さん」
*おしまい*
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