兄さん、という弟の呼び声に、オレは正面玄関へと続く階段を上っていた足を止めて振り返った。段差のおかげで、数段下のアルを見下ろす形になる。ふふ、と鎧の中で笑う声がした。微笑むアルの姿が重なって見えて、無機質な鉄の鎧が優しい表情を浮かべたような気がした。 「兄さんのほっぺた、夕陽の色」 ああ、オレの好きな声だと思った。やわらかな、耳に心地良い響きだ。 見下ろすイーストシティの町並みも、司令部の建物も、薄いオレンジ色に包まれていた。秋の陽は短い。駅のプラットホームに降り立ったのはつい一刻ほど前だったのに、馴染みの宿屋に寄ってここ東方司令部に着く頃にはもう、太陽は黄金色に密度を増し、薄らと朱色を混ぜ始めていた西の空は完全に茜に染まっていた。 「夕焼けって、なんだか懐かしい感じがするね」 オレの好きなアルの声が、ぼんやりとした意識の向こう側で聞こえる気がした。朝から移動続きで乱れた髪の一筋が頬に落ちる。金のそれも赤みがかって見えるのだから、アルには自分は懐かしい色に包まれて見えるだろうか。 「……兄さん?」 アルに顔を覗き込まれて、はっと我に返った。無反応なオレに訝しげにどうしたのと尋ねてくる弟に、何でもない、そうだな――そう返しながら、視線は睨むように茜空に預けたまま。 西の空を焼いていく真っ赤な夕陽に、オレが覚えるのは郷愁じゃなかった。ぞっとするほどに禍々しく空を喰っていく赤を見て、オレが思い起こすのはいつも、あいつの焔だ。冷たい指から生み出される、鮮やかに熱く煮えたぎる焔。 あいつの焔に焼かれたら、感じるのはどうしようもない快楽なのではないかと、オレは考えてみたことがある。 それはセックスの快楽よりもずっと厭らしくて汚らわしくて、けれど眼が眩むほどの。頭がおかしくなるくらいに強い快楽だろうと、そう思う。どれだけ肌を重ねても、精を吐き出しても、得られないほどの。そしてオレは時々気が狂いそうなほどに、それを味わいたいと思うのだ、どうしようもなく。 あの焔に焼き尽くされてみたいと思うオレの浅ましい欲望の在処を、あいつは知っているのだろうか。抱かれるよりも焼かれたいなんて、変態以外の何物でもない。もしくは、獣か。自分の中に巣くう得体の知れないもの、たぶん本能と呼ぶものの、中身はそんなものだ。むちゃくちゃに傷つけて、傷つけられたい。壊して、壊れてしまいたい。――その想いは、恋ですらなかった。 「鋼の」 カツン、と軍靴が鉄を踏む音と共に短く呼ばわった声に振り返ると、金髪の副官を後ろに従えた男が階段を降りながら、こちらに向かって軽く手を挙げた。――数年前の再会の日と、同じように。鴉の濡れ羽色の髪に、底の見えない瞳、ついでに口許の胡散臭い笑みも健在だ。違うのは、彼が呼んだ名前。 鋼の、と欲して止まない男が銘を呼ぶ声が好きだった。幾重の鎖に縛られた、重苦しい二つ名は隷属の証。低い声でその銘を呼ばれるたび、オレはあんたの錬金術師なのだと、そう思えるから。 ……もしも。 もしもアルを取り戻せなかったら、その時はあんたの焔で燃やして欲しい。 そんなことを半ば本気で願う自分は、どうしようもなく狂っている。地獄の業火に包まれながら、感じるのは目の眩むような快楽に違いないだろう。どんな顔であんたがその指を弾くのか、わかっていながら、懇願するんだ。――オレは、ずるいから。 あんたの焔が心臓を舐めるその瞬間まで、絶対あんたから眼を離さない。願わくは、あんたがオレの最期を死ぬまで覚えているように。鮮やかな美しい焔に焼き尽される汚れた子どもを、決して忘れぬように。 最後まで云わないと立てた誓いを、破る気はないから。 愛していた、そんな陳腐な言葉よりもっと強烈に、熾烈に。 あんたの脳に、網膜に、焼き付くように―― 一番残酷な方法で、抜けない楔を打ち込んで。 西日の眩しさに目を細めながら、男を見上げる。口の端をわざとらしく持ち上げて好戦的な視線を投げれば、笑みを深くする気配がした。オレは両手をズボンに突っ込み、首だけを返して振り仰いだまま。上官に向かってこんな態度は厳罰ものだけれど。 「よう、大佐」 いつものように、階級で呼ぶ。オレがその名を呼ぶのは、あんたの焔に包まれた時だと決めているから。 逆光が眩しかった。陽の沈みかけた西の空は濃い朱の中に紫を混ぜ、複雑に渦を巻いて夜に呑まれようとしている。禍々しく、けれど眼の逸らせないほど鮮やかに。落ちる太陽を背負った男の、黒曜石の瞳がすうっと細くなる。 ――ああ、呑まれるなと思った。 |
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