焔と覚悟 執務室は薄い朱色に染められつつあった。もうすぐで定時になるが、到底終わりそうにない量の書類の山がロイの机の上には積まれている。先刻、優秀な副官が極上の笑顔とともにどさりと置いていったものだ。目の前にこうも分厚い書類の束があると、片づけても片づけても減らない錯覚を覚えて嫌になる。ロイが小さなため息を吐くと、同時にコンコンというノックの音が室内に響いた。 顔を上げて返事をすれば、一拍を置いて失礼しますと声が続く。扉が開いて、あの少年とは別の金色が光を見せた。ロイは手を止めて、微笑する。増えた肩章の他は何一つ変わらない彼女は、相変わらず軍服をきっちりと着込み、美しい金髪をまとめた姿で涼しげなまなざしをしていた。 「お久しぶりです、少将」 「ひと月ほどになるかな、ホークアイ大尉」 現在ホークアイはロイの補佐官を外れ、軍法会議所にその籍を移している。ひと月――以前と変わらぬまなざしをした彼女は、しかしより強い意志と信念とをその瞳に宿していた。強い女だ。きっと一刻も無駄にすることなく、新たな場所で学べる限りを貪欲に吸収してきたのだろう。ホークアイは少し笑んで、ロイの執務机に歩み寄った。 「頼まれていた資料です。遅くなってしまって申し訳ありません」 いや、とロイは書類の山を机の端に寄せ、ホークアイの資料に手を伸ばす。実際、無茶を言ったのはこちらの方だった。慣れない仕事をこなす忙しさの中で、これだけの資料を揃えるのには随分と骨を折っただろう。むしろ彼女の来訪はロイの予想よりも早いくらいだったが、ホークアイは首を振った。 「いえ、私の力不足です」 自分の手元をじっと見つめ、溜息とともに静かな笑みを零して言った彼女のその瞳に浮かぶ色は、亡き人を偲ぶそれだった。ふわりと風が吹き抜けるように、穏やかな夕陽の光の中。ロイの意識は、攫われる。 ――よぉ、ロイ! 元気だったかー? 脳裏に甦るのは、聞いただけで彼とわかる軽快な足音を立てて、ノックも無しに扉を開け放ってやって来た彼の人。頼んだ資料は必ず手渡しで、幸せに満ちた笑顔とともに、司令部に明るい空気を運んできた。冗談を混ぜた歌うような口調の中に、時折ふっと理知的なまなざしを見せる彼は、ロイの一番の理解者だった。 ――理想を語れよ、ヒューズ。 文字通りの地獄。あの乾ききった大地の上で、祈りににも似た誓いを交わした。失ったものは数えきれない。得たものは、覚悟だけだった。生きて、この国を変えてやると。そのために、青臭い理想を掲げて、肩を並べて共に走ろうとそう誓った。生き意地汚く生きのびると。何があっても――斃れた友の屍を背負ってでも。 ――いいぜ、乗ってやる。 眼鏡の奥に鋭い眼光を光らせて唇を持ち上げた友は、ついに約束を違えなかった。場所を異にしていても、常にロイのサポートに回ってくれた。時には裏ルートの情報を、時にはその鮮やかに冴える知恵を。時には叱咤し時には激励し、そしてゆっくりと休める場所を。彼にもらった多すぎるものたちを、もう返すすべをロイは知らない。 「少将」 ホークアイの声に、ロイははっとなった。窓からは朱を混ぜ始めたやわらかな光が射し込み、彼女は目を美しく伏せて、その目許に光纏う金の前髪を零していた。 「ああ、すまない」 素直に謝れば、珍しいですねと苦笑が返ってくる。話の途中に意識を沈めてしまったことを言っているのか、素直に謝罪を口にしたことを言っているのか、その表情からは読めなかったけれども。 「エドワード君は頑張っているようですね」 暖かな色に染まり始めた窓の外を眺めながら、ホークアイは呟くように言った。まだ東方司令部に居た頃、司令室から見下ろせる中庭で軽やかな笑い声を上げていた子どもを、思い出しているのかもしれない。その視線を辿るようにして、ロイも赤く染まり始めた空を仰いだ。 昼間、天頂からぎらぎらとどぎつい光線を降り注いでいた太陽がゆっくりとその身にやわらかな色を纏い、下降し始める。天辺から直線に降りてくる射るようなそれではない、暖かく広がっていくような光が、包み込むように降りてきて、視界を染めていく。静かな夜を導く、優しく穏やかなその色は、暖かさと懐かしさと、そして切ない痛みを呼び起こす。 「……エドワードは」 耳をくすぐる子どもの笑い声が、まるで今現実に窓から昇ってくるような気がする。取り戻せない過去を懐かしむのは、年を重ねた証拠なのか、それとも沈む陽とともに時がゆるやかに流れていくからなのか。 「あの子は、人を傷つけることを怖れ――人の死に、傷む」 視線は懐かしい色に預けたまま、唇に乗せた笑みは苦い。 「あの子のそばに在ると、自分が人間(ひと)であることを忘れずにいられるよ」 早く伴侶を見つけろと、会うたび冗談めかして言っていた友の姿が甦る。そしたらお前にもわかるから、そう笑った友に、乾いた笑みを返したのは自分だ。もう痛みも覚えず焔を生み出せるようになった指で、どうして惚れた女になど触れられると嘲るように言った。 今ならお前の気持ちがわかると、そう告げたなら、どんな顔をするだろう。笑うだろうか。どうしても欲しかったと、手を伸ばさずにはいられなかったのだと言ったなら。 失ったものは、数知れず。――得たものは、覚悟。 ロイは傍らのホークアイを振り返った。地獄まで共に血の河を渡ってゆくと盟約交わした共犯者。視線を受け、女はゆっくりと、微笑した。それに苦笑を噛み殺して、ロイは身を返す。 背にした窓の向こう、夕闇を導く熟れた太陽が、静かに、その身を沈めていった。 |
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